オランダの衰退と英仏抗争の時期には北欧、東欧において新たな勢力が台頭した。ロシアのピョートル1世は、雪と氷に閉ざされたロシアの状況を打破すべく不凍港を求めた。そのために自ら西欧に赴いてオランダの造船所で職工を体験し、200人を越す大視察団を派遣して西欧の科学技術を学び、その科学技術をもとに軍備の増強を行い、南方に進出した。黒海方面ではオスマン帝国を撃破し、1699年にはカルロヴィッツ条約を締結してアゾフ海沿岸一帯を獲得した。
また、1700年から20年におよぶ大北方戦争において、カール12世率いる北欧の強国スウェーデンを破り、1721年ニスタット条約によって現在のエストニア、ラトヴィア、リトアニアといったバルト海沿岸諸国、およびカレリアを獲得し、バルト海域の覇権を掌握、ピョートル1世は1721年に皇帝(インペラトール)となった。なお、この戦争中の1703年にバルト海を臨む地に新都を建設し、1712年には内陸のモスクワからサンクトペテルブルクに遷都した。東方では、1707年にカムチャツカの領有を決め、のちにベーリングを派遣している。
ただし、その一方では、産業の近代化と国家の強大化を推進するための財源確保の必要から、農奴制の強化がはかられていき、この政策は18世紀後半のエカチェリーナ2世の時代にも継続された。
プロイセンの台頭とオーストリア
ウェストファリア条約により、ドイツの領邦国家には主権が認められた。そのなかで台頭してきたのがベルリンを拠点とし、同条約で東ポンメルンの領有を認められたプロイセンである。18世紀前半の「兵隊王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフランスから逃亡してきたフランスのカルヴァン派・ユグノー[2]を庇護し国内の産業を育成するかたわら、宮廷費用を圧縮し、また、ユンカーと呼ばれる領主貴族の子弟を高級官僚・将校として採用し、農奴からの徴兵を実施して軍備増強を行った。また、大北方戦争に参加し、プロイセンの版図を拡大した。この戦争でプロイセンは、西ポンメルン、ウーゼドム島、ヴォリン島などを獲得している。後を継いだ息子のフリードリヒ2世は、オーストリア・ハプスブルク家のカール6世の死後、娘のマリア・テレジアの家督相続の見返りにシュレージエンの割譲を要求し、フランス、ザクセン、バイエルンと同盟を結び、1740年オーストリア継承戦争を起こして、勢力を広げることに成功した。
オーストリアはイギリスとの提携により、プロイセン以外のドイツ諸侯に攻め込まれた領土を取り戻すことに成功したが、マリア・テレジアはプロイセンからシュレージエンを奪回することに執念を燃やした。そこで、ヴェンツェル・アントン・カウニッツの外交政策を採用し、長年の宿敵だったフランスと和解し、ロシアと同盟して反プロイセン包囲網を形成した(外交革命)。ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータと手を組んだので「3枚のペチコート作戦」と呼ばれた。その一方で、プロイセンはイギリスとの同盟によって対抗することとし、1756年、両者の間で七年戦争が勃発した。最終的にはロシアのエリザヴェータ女帝の没後、ドイツ文化に心酔していたピョートル3世がプロイセン側に立場を変えたため、プロイセンは九死に一生を得た形で講和となり、1763年フベルトゥスブルク条約によって、シュレージエンのプロイセン領有が認められることとなった。
18世紀前半のアジア
産業革命以前のヨーロッパの海外活動は、アフリカ沿岸部、南北アメリカ、東南アジアなどの地域を植民地としていたが、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国、清帝国などのアジア専制国家群に対しては、各国の特産品を買い付け、ヨーロッパに運び、利益を得る貿易活動に中心を置いていた。そのため、特産物を生み出すアジア各地の伝統文化や社会を尊重し、これを破壊することはむしろ避けていた。
ヨーロッパ勢力が海からアジアに進出したといっても、インド綿布や宝石、イランの絹織物や絨毯のように、海路を通じてではなく内陸アジアの遊牧民を経由して各地に運ばれたものもあり、18世紀前半までのヨーロッパは、こうしたアジア内部の交易に、ようやく外側から参画していたにすぎなかった。しかし、1765年、ブクサールの戦いでインド連合軍に勝利したイギリス東インド会社が、ムガル皇帝からベンガル、ビハール、オリッサの地租徴税権を獲得するとインドの植民地化が急速に進展し、拡大するヨーロッパ経済への従属を強めていった。
オスマン帝国の様相
カルロヴィッツ条約により領土の削減を余儀なくされたオスマン帝国だったが、1700年には大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたため、ピョートル1世治下で国力増大の著しいロシア帝国との間で苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功したが、つづくオーストリア・ヴェネツィア共和国との戦争の結果、1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失った。
このように、17世紀後葉から18世紀にかけてのオスマン帝国は、軍事的には東欧絶対主義諸国に押されて、かつての栄光を失いつつあったが、18世紀に入ると、ヨーロッパの新しい制度や文化を積極的に取り入れて、帝国統治のしくみをかえようとする改革派の人びともあらわれた。アフメト3世の宰相イブラヒム・パシャの執政時代には対外的融和政策が採られ、平和を謳歌する雰囲気のなかで西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時期を、西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼称する。
一方、18世紀には、政府にかわって地方の徴税権を掌握したアーヤーンが経済的な力をたくわえ、かれらの手に支えられた緩やかな経済発展が進んだものの、地域一帯に影響力をもつ名士が各地に台頭し、地方社会の自立化が進んだ。
サファヴィー朝の滅亡とアフシャール朝
オスマン帝国によってイラクを失って以後のサファヴィー朝は次第に衰えていった。18世紀に入ると衰退は決定的となり、クルディスタンのクルド人、バローチスタンのバローチ人など辺境の民族が相次いで反乱を起こした。特にアフガニスタンでアフガン人(パシュトゥーン人)のミール・ヴァイスが1709年に起こした反乱は、カンダハールにアフガン政権を自立させるに至った。
1719年、ミール・ヴァイスの子マフムードはイラン本土への進軍を開始しケルマーンを攻略、1722年には首都エスファハーンを包囲して王(シャー)フサインは退位、マフムードに降伏した。これに対し、オスマン帝国とロシア帝国が干渉に踏み切り、イラン侵攻を開始して情勢は混乱をきわめた。
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同年、フサインの子タフマースブ2世が古都カズヴィーンで即位し、アフガン人への抵抗を開始したが、諸勢力の攻勢の前に逃亡を余儀なくされた。やがてホラーサーン地方に居住していたクズルバシュのアフシャール部族を率いたナーディルクリー・ベグがタフマースブを庇護して、その摂政となり、アフガン人勢力やオスマン帝国を破ってサファヴィー朝の旧領の大半を回復した。1736年、ナーディルはタフマースブの子アッバース3世を退位させ、ナーディル・シャーと称してアフシャール朝を開いた。
ナーディル・シャーは、短い期間ではあるものの、アナトリア東部からイラン、中央アジア、インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れたため、イラン史では一代の梟雄とされ、その武勇により「ペルシアのナポレオン」、「第二のアレクサンドロス」と呼ばれることがある。アフシャール朝は18世紀末までつづくが、ナーディル・シャーの暗殺後は群雄割拠の時代がつづいた。
ムガル朝の衰退とインドの分裂
50年におよぶ治世のなかで北インドの統治に成功し、デカン遠征をはたしてインド亜大陸のほぼ全域を支配したアウラングゼーブは1707年に死去した。イスラム神学にも深い造詣をもつ彼は、「生きた聖者」とよばれる厳格なイスラム教徒で、異教徒を抑圧したため、晩年はヒンドゥー教徒の反発や各地の農民一揆に悩まされる日々を過ごしていたという。
アウラングゼーブ死後のムガル朝は、バハードゥル・シャー1世(位1707年-1712年)、ジャハーンダール・シャー(位1712年-1713年)、ファッルフシヤル(位1713年-1719年)、ラフィー・ウッダラジャート(位1719年)、ラフィー・ウッダウラ(位1719年)の6人の皇帝が、ムハンマド・シャー(位1719年-1748年)が1719年にパーディシャー(皇帝)の称号を得て即位するわずか12年の間に、相次いで廃位や暗殺をくり返す混乱状態となった。これは、外戚サイイド家が皇帝位に干渉しつづけたことによる。ムハンマド・シャーの即位もまた、サイイド家の信任によるものだった。
1708年、ムガル朝の地方統治者と戦っていたシク教第10代教主のグル・ゴーヴィンド・シングが、デカン高原のマラータ王国遠征中、アフガン人の刺客から受けた傷がもとで死亡した。彼の4人の息子はムガル朝との戦争で先に死んでおり、遺言により教主職の相続を廃止し、聖典『グラント・サーヒブ』を教主(グル)として仰ぐようにしたため、人間としてのグルは彼が最後となった。こののち、シク教徒たちは、1710年から1715年にかけてムガル朝に対し、大規模な反乱を起こしている。
ヒンドゥー教では、17世紀後半よりシヴァージーによって率いられたマラータ族がムガル朝に反乱を起こし、デカン高原西部にマラータ王国を称してアウラングゼーブを苦しめたが、1680年にシヴァージーが死ぬと、王国は一時衰退していた。
1708年、有力諸侯によるマラータ同盟が結成された。1714年、軍司令官らの謀反により苦境に立ったマラータ国王シャーフーは、司令官バーラージー・ヴィシュワナートを初代宰相に任じた。ここに、王国の中央集権的な軍事国家体制は崩壊し、各地の有力諸侯(マハラジャ)による諸侯連合体制がしだいに整備されて、ムガル朝の衰退に乗じてインド中部から北部へと勢力を伸ばし、1752年には弱体化したムガル朝の首都デリーへの入城を果たした。
その間、1739年には、アフシャール朝イランのナーディル・シャーがインドに侵攻している。首都デリーでは略奪と虐殺をくり返し、シャーが引き揚げたあとはまるで廃墟のようだったという。長いあいだ栄えたムガル朝の巨万の富は諸外国にも鳴り響いており、莫大な財貨を持ち帰った彼はイランの人びとから英雄として迎えられた。戦利品のなかには、ムガル朝の象徴「孔雀の玉座」があった。これは、2羽のクジャクを飾る宝石がちりばめられたもので、シャーによって解体され、宝石の山となって持ち帰られたという。
サファヴィー朝、ムガル朝ともに、もともと内陸部の騎馬民の軍事力を背景にして成立した王朝国家ということもあり、海上交易には比較的関心がうすく、インド洋やペルシア湾でのヨーロッパ諸国の活動をほとんど制限しなかった。また、ヨーロッパの新しい科学技術に対する関心も概して低かった。それが、ヨーロッパ諸国の本格的な進出を許す原因ともなった。しかし、両王朝の衰退は主に領域内からの反乱によるものであり、ヨーロッパ人の進出の結果とはいえない。ヨーロッパ人の進出、特にイギリスによるインドの植民地化はむしろその衰退に乗じたものといえる。