2009年06月26日

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後、篤農家の久野庄太郎と浜島辰雄安城農林高校教諭の発案に吉田茂が協力し世界銀行の融資を受け、アメリカ合衆国の進んだ土木技術、建設機械を用いて、わずか5年間で6,800立方メートルを蓄えるダム(牧尾ダム)、100キロメートル余の幹線水路と1,000キロメートル余の支線水路が建設された。建設に際して50名の殉職者を出した。

愛知用水はため池に頼っていた尾張丘陵部、知多半島の農業・井戸に頼っていた住民の日常生活を著しく向上させた。

知多半島南部及び日間賀島・篠島・佐久島の住民からは特に感謝された(海水交じりの井戸水に生活用水を頼っていたため)。地域住民の生活は著しく向上し、観光などの産業の発展にもこの用水の水は貢献した。
また、この用水が供給する工業用水によって東海製鉄所(東海市、現・新日本製鐵名古屋製鐵所)の立地が可能となった。

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東郷調整池(愛知池)
愛知用水の幹線水路のほぼ中央に位置し、愛知池と呼ばれる。周囲には散策路が周辺には公園が整備され、ウォーキングや犬の散歩など市民の憩いの場として利用されている。湖面は漕艇競技場として利用されている。
佐布里調整池(佐布里池)
愛知県知多市に位置し、佐布里池(そうりいけ)と呼ばれる。佐布里梅をはじめ様々な梅の木が湖を囲う。湖岸に「緑と花のふれあい公園」がある。
1961年7月7日、愛知用水通水記念の額面10円の切手が発行された。

愛知県の用水

木曽川用水
木津用水(合瀬川)
豊川用水
宮田用水

2009年06月10日

国民の祝日に関する法律

国民の祝日に関する法律(こくみんのしゅくじつにかんするほうりつ)は、1948年(昭和23年)7月20日に公布・即日施行された日本の法律である。全3条からなる。この法律の施行に伴い1912年(大正元年)から施行(ただし1927年(昭和2年)に全部改正)されていた勅令「休日ニ関スル件」が廃止となった。
化学物質過敏症
特定疾患
オーケストラ
バーベキュー
スキンケア
学童保育所
衛生
合気道
ホスピス
試写会
材料科学
システム工学
哺乳類
クリスマス
遺伝子疾患
食品添加物
ボクシング
履歴書
バレーボール
労働組合

第1条 意義
第1条で「国民の祝日」(祝日)とは、自由と平和を求めてやまない日本国民が、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日である、と定義している。
第2条 祝日の内容
祝日の名称、月日、祝日の意義を列記してある。ただし、いくつかの祝日については、日付では指定せず、曜日や暦を指定している。また建国記念の日は政令で定めることとされている。
第3条 休日
国民の祝日を休日とする規定及びその例外である振替休日の規定、さらに国民の休日の規定がされている。

経緯 [編集]
1948年 - 制定時は祝日は1年に9日(元日、成人の日、春分の日、天皇誕生日、憲法記念日、こどもの日、秋分の日、文化の日、勤労感謝の日)存在した。同法による初の祝日は同年9月23日の秋分の日
1966年 - 建国記念の日(2月11日)、敬老の日(9月15日)、体育の日(10月10日)を制定
1973年 - 祝日が日曜日の場合はその翌日を休日とする振替休日を制定。初適用日は同年4月30日である。
1985年 - 二つの祝日に挟まれた平日を休日とする国民の休日を制定。初適用日は1988年5月4日である。
1989年 - 1月に今上天皇が即位したことにともない、天皇誕生日を4月29日から12月23日に移動。みどりの日(4月29日)を制定
1995年 - 1996年から海の日(7月20日)を制定
1998年 - 2000年から成人の日を1月15日から1月の第2月曜日へ、体育の日を10月10日から10月の第2月曜日へ移動(ハッピーマンデー制度)
2001年 - 2003年から海の日を7月20日から7月の第3月曜日へ、敬老の日を9月15日から9月の第3月曜日へ移動
2005年 - 2007年からみどりの日を4月29日から5月4日へ移動し、同年以降5月4日は国民の休日でなくなる。同じく、昭和の日(4月29日)を制定
2005年 - 5月3日から5日が3日連続で祝日となったことに伴い、振替休日と国民の休日についての規定を一部変更。2008年と2009年の5月6日は、ともに初めて火曜日と水曜日の振替休日となることが確定
2008年 - 2月1日付官報によって2009年の秋分の日が9月23日と決定されたことにより、同年9月22日に国民の休日が約3年半ぶりに適用されることが決定。5月4日以外の日に適用されるのは初めて。

2009年06月06日

信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽町を

信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽町を中心に作られる日本の伝統陶磁器、?器で、日本六古窯のひとつに数えられる。

信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。信楽焼は、長い歴史と文化に支えられ、この地の伝統的な技術によって今日に伝えられ、日本六古窯のひとつに数えられている。中世末期頃より窖窯によって壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが始められ、日本独自の陶磁器産地としての歴史が展開してきた。

信楽焼の特徴は、信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わびさび”の趣を今に伝えている。

信楽焼ならではの素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして、室町・桃山時代以降、茶道の隆盛とともに「茶陶信楽」として茶人をはじめとする文化人に親しまれ、珍重されてきたのもその所以ともいえる。

江戸時代には、商業の発達にともない、茶壺をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産され、明治時代には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまり、一躍全国の需要をまかなうほどに大きな成長を遂げた。その他、神仏器や酒器、茶器、灯火具などの小物陶器や壺、火鉢などの大物陶器が生産され、質量ともに大きな発展を遂げた。
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昭和の時代に入り、1950年代後半から1970年代にかけては、高度経済成長により電気や石油暖房器具の開発・普及の中で、生活水準が向上するなど生活様式の変貌にともない、信楽焼も火鉢の需要が減退するなど一大転機に見舞われたが、伝統技術と職人の智恵が火鉢の技「なまこ釉」を取り入れた植木鉢を誕生させ、高級盆栽鉢や観葉鉢が生産の主力となり、高い評価を受けるに至った。その後、水甕、種壺、茶壺、茶器、徳利、火鉢、植木鉢、花瓶など大物から小物に至るまで信楽焼独特の「わび」「さび」を残し、今日に至っている。

現在信楽では、植木鉢、食器といった日用陶器や建築用タイル、陶板、タヌキ、フクロウ、傘立て、花器、茶器、庭園陶器などが生産され、私たちの生活に根ざした陶器が造られ、需要に対応した技術開発が行われている。

信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。

信楽は、奈良、山城などの畿内と東海地方とを結ぶ交通路でもあり、茶湯の中核として発展した京、奈良に近いことから、後に茶陶信楽焼が発展した大きな要因と考えられている。また、焼き物に良好な陶土が豊富にあり、陶工たちにとっても理想郷だったといえよう。

信楽焼は、1976年(昭和51年)に国から伝統的工芸品の指定を受け、今日に至っている。

2009年04月23日

ボゴミル派

ボゴミル派(-は)は、10世紀中ごろから14世紀末までブルガリアを中心に信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、東方正教会では異端とされた。

10世紀中頃に、ブルガリア司祭のボゴミルにより開始された。ブルガリアにおいては東ローマ帝国への抵抗運動と結びつき、一部の地域では正統派をしのぐ勢いをもったが、帝国が衰えブルガリアがオスマン帝国領となり、イスラム教が入ってくると廃れた。

フランスのカタリ派(アルビジョワ派)に影響を与えたとも考えられている。

神(真の神)には、息子が二人いた。サタナエルとキリストという。しかしサタナエルは神に反逆してサタナ(悪魔、叛く者の意)となった。 地上の世界は、サタンが神に対抗するために作り上げた。 人間の魂は神が創り、肉体は混沌からサタンが作り上げた。 これは人間が神を崇拝するようにするとの約束にもとづくものであったが、その後、サタンは反逆し、人間が自分を神と崇拝するようにしむけた。これが旧約聖書の神(エホバ)である、とする。

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教義
マニ教的な善悪二元論を説く。 人間の魂は、悪しき肉体に拘束されている、この世の物質的なものは全て悪魔(サタナ、ギリシア語でサタンの意)の手で作られたものである、救いのためには全ての物質的なものを否定せねばならない。 ゆえに結婚・肉欲・飲酒・肉食、また教会の秘蹟(機密)も含め、地上の物質的なもの全てが否定される。このように、グノーシス主義の影響を強く受けていると思われる。

聖像や十字架なども物質的なものとして忌避された。また東方正教会や東ローマ帝国などの聖俗の既成権力も、悪魔に由来するものとして否定する。旧約聖書も悪魔のものとして否定された。キリストの受肉も否定され、仮現説に近い教義をもっていた。

2009年04月19日

西欧化政策とロシアの発展

オランダの衰退と英仏抗争の時期には北欧、東欧において新たな勢力が台頭した。ロシアのピョートル1世は、雪と氷に閉ざされたロシアの状況を打破すべく不凍港を求めた。そのために自ら西欧に赴いてオランダの造船所で職工を体験し、200人を越す大視察団を派遣して西欧の科学技術を学び、その科学技術をもとに軍備の増強を行い、南方に進出した。黒海方面ではオスマン帝国を撃破し、1699年にはカルロヴィッツ条約を締結してアゾフ海沿岸一帯を獲得した。

また、1700年から20年におよぶ大北方戦争において、カール12世率いる北欧の強国スウェーデンを破り、1721年ニスタット条約によって現在のエストニア、ラトヴィア、リトアニアといったバルト海沿岸諸国、およびカレリアを獲得し、バルト海域の覇権を掌握、ピョートル1世は1721年に皇帝(インペラトール)となった。なお、この戦争中の1703年にバルト海を臨む地に新都を建設し、1712年には内陸のモスクワからサンクトペテルブルクに遷都した。東方では、1707年にカムチャツカの領有を決め、のちにベーリングを派遣している。

ただし、その一方では、産業の近代化と国家の強大化を推進するための財源確保の必要から、農奴制の強化がはかられていき、この政策は18世紀後半のエカチェリーナ2世の時代にも継続された。

プロイセンの台頭とオーストリア
ウェストファリア条約により、ドイツの領邦国家には主権が認められた。そのなかで台頭してきたのがベルリンを拠点とし、同条約で東ポンメルンの領有を認められたプロイセンである。18世紀前半の「兵隊王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフランスから逃亡してきたフランスのカルヴァン派・ユグノー[2]を庇護し国内の産業を育成するかたわら、宮廷費用を圧縮し、また、ユンカーと呼ばれる領主貴族の子弟を高級官僚・将校として採用し、農奴からの徴兵を実施して軍備増強を行った。また、大北方戦争に参加し、プロイセンの版図を拡大した。この戦争でプロイセンは、西ポンメルン、ウーゼドム島、ヴォリン島などを獲得している。後を継いだ息子のフリードリヒ2世は、オーストリア・ハプスブルク家のカール6世の死後、娘のマリア・テレジアの家督相続の見返りにシュレージエンの割譲を要求し、フランス、ザクセン、バイエルンと同盟を結び、1740年オーストリア継承戦争を起こして、勢力を広げることに成功した。

オーストリアはイギリスとの提携により、プロイセン以外のドイツ諸侯に攻め込まれた領土を取り戻すことに成功したが、マリア・テレジアはプロイセンからシュレージエンを奪回することに執念を燃やした。そこで、ヴェンツェル・アントン・カウニッツの外交政策を採用し、長年の宿敵だったフランスと和解し、ロシアと同盟して反プロイセン包囲網を形成した(外交革命)。ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータと手を組んだので「3枚のペチコート作戦」と呼ばれた。その一方で、プロイセンはイギリスとの同盟によって対抗することとし、1756年、両者の間で七年戦争が勃発した。最終的にはロシアのエリザヴェータ女帝の没後、ドイツ文化に心酔していたピョートル3世がプロイセン側に立場を変えたため、プロイセンは九死に一生を得た形で講和となり、1763年フベルトゥスブルク条約によって、シュレージエンのプロイセン領有が認められることとなった。

18世紀前半のアジア
産業革命以前のヨーロッパの海外活動は、アフリカ沿岸部、南北アメリカ、東南アジアなどの地域を植民地としていたが、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国、清帝国などのアジア専制国家群に対しては、各国の特産品を買い付け、ヨーロッパに運び、利益を得る貿易活動に中心を置いていた。そのため、特産物を生み出すアジア各地の伝統文化や社会を尊重し、これを破壊することはむしろ避けていた。

ヨーロッパ勢力が海からアジアに進出したといっても、インド綿布や宝石、イランの絹織物や絨毯のように、海路を通じてではなく内陸アジアの遊牧民を経由して各地に運ばれたものもあり、18世紀前半までのヨーロッパは、こうしたアジア内部の交易に、ようやく外側から参画していたにすぎなかった。しかし、1765年、ブクサールの戦いでインド連合軍に勝利したイギリス東インド会社が、ムガル皇帝からベンガル、ビハール、オリッサの地租徴税権を獲得するとインドの植民地化が急速に進展し、拡大するヨーロッパ経済への従属を強めていった。

オスマン帝国の様相
カルロヴィッツ条約により領土の削減を余儀なくされたオスマン帝国だったが、1700年には大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたため、ピョートル1世治下で国力増大の著しいロシア帝国との間で苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功したが、つづくオーストリア・ヴェネツィア共和国との戦争の結果、1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失った。

このように、17世紀後葉から18世紀にかけてのオスマン帝国は、軍事的には東欧絶対主義諸国に押されて、かつての栄光を失いつつあったが、18世紀に入ると、ヨーロッパの新しい制度や文化を積極的に取り入れて、帝国統治のしくみをかえようとする改革派の人びともあらわれた。アフメト3世の宰相イブラヒム・パシャの執政時代には対外的融和政策が採られ、平和を謳歌する雰囲気のなかで西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時期を、西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼称する。

一方、18世紀には、政府にかわって地方の徴税権を掌握したアーヤーンが経済的な力をたくわえ、かれらの手に支えられた緩やかな経済発展が進んだものの、地域一帯に影響力をもつ名士が各地に台頭し、地方社会の自立化が進んだ。

サファヴィー朝の滅亡とアフシャール朝
オスマン帝国によってイラクを失って以後のサファヴィー朝は次第に衰えていった。18世紀に入ると衰退は決定的となり、クルディスタンのクルド人、バローチスタンのバローチ人など辺境の民族が相次いで反乱を起こした。特にアフガニスタンでアフガン人(パシュトゥーン人)のミール・ヴァイスが1709年に起こした反乱は、カンダハールにアフガン政権を自立させるに至った。

1719年、ミール・ヴァイスの子マフムードはイラン本土への進軍を開始しケルマーンを攻略、1722年には首都エスファハーンを包囲して王(シャー)フサインは退位、マフムードに降伏した。これに対し、オスマン帝国とロシア帝国が干渉に踏み切り、イラン侵攻を開始して情勢は混乱をきわめた。

じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

同年、フサインの子タフマースブ2世が古都カズヴィーンで即位し、アフガン人への抵抗を開始したが、諸勢力の攻勢の前に逃亡を余儀なくされた。やがてホラーサーン地方に居住していたクズルバシュのアフシャール部族を率いたナーディルクリー・ベグがタフマースブを庇護して、その摂政となり、アフガン人勢力やオスマン帝国を破ってサファヴィー朝の旧領の大半を回復した。1736年、ナーディルはタフマースブの子アッバース3世を退位させ、ナーディル・シャーと称してアフシャール朝を開いた。

ナーディル・シャーは、短い期間ではあるものの、アナトリア東部からイラン、中央アジア、インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れたため、イラン史では一代の梟雄とされ、その武勇により「ペルシアのナポレオン」、「第二のアレクサンドロス」と呼ばれることがある。アフシャール朝は18世紀末までつづくが、ナーディル・シャーの暗殺後は群雄割拠の時代がつづいた。

ムガル朝の衰退とインドの分裂
50年におよぶ治世のなかで北インドの統治に成功し、デカン遠征をはたしてインド亜大陸のほぼ全域を支配したアウラングゼーブは1707年に死去した。イスラム神学にも深い造詣をもつ彼は、「生きた聖者」とよばれる厳格なイスラム教徒で、異教徒を抑圧したため、晩年はヒンドゥー教徒の反発や各地の農民一揆に悩まされる日々を過ごしていたという。

アウラングゼーブ死後のムガル朝は、バハードゥル・シャー1世(位1707年-1712年)、ジャハーンダール・シャー(位1712年-1713年)、ファッルフシヤル(位1713年-1719年)、ラフィー・ウッダラジャート(位1719年)、ラフィー・ウッダウラ(位1719年)の6人の皇帝が、ムハンマド・シャー(位1719年-1748年)が1719年にパーディシャー(皇帝)の称号を得て即位するわずか12年の間に、相次いで廃位や暗殺をくり返す混乱状態となった。これは、外戚サイイド家が皇帝位に干渉しつづけたことによる。ムハンマド・シャーの即位もまた、サイイド家の信任によるものだった。

1708年、ムガル朝の地方統治者と戦っていたシク教第10代教主のグル・ゴーヴィンド・シングが、デカン高原のマラータ王国遠征中、アフガン人の刺客から受けた傷がもとで死亡した。彼の4人の息子はムガル朝との戦争で先に死んでおり、遺言により教主職の相続を廃止し、聖典『グラント・サーヒブ』を教主(グル)として仰ぐようにしたため、人間としてのグルは彼が最後となった。こののち、シク教徒たちは、1710年から1715年にかけてムガル朝に対し、大規模な反乱を起こしている。

ヒンドゥー教では、17世紀後半よりシヴァージーによって率いられたマラータ族がムガル朝に反乱を起こし、デカン高原西部にマラータ王国を称してアウラングゼーブを苦しめたが、1680年にシヴァージーが死ぬと、王国は一時衰退していた。

1708年、有力諸侯によるマラータ同盟が結成された。1714年、軍司令官らの謀反により苦境に立ったマラータ国王シャーフーは、司令官バーラージー・ヴィシュワナートを初代宰相に任じた。ここに、王国の中央集権的な軍事国家体制は崩壊し、各地の有力諸侯(マハラジャ)による諸侯連合体制がしだいに整備されて、ムガル朝の衰退に乗じてインド中部から北部へと勢力を伸ばし、1752年には弱体化したムガル朝の首都デリーへの入城を果たした。

その間、1739年には、アフシャール朝イランのナーディル・シャーがインドに侵攻している。首都デリーでは略奪と虐殺をくり返し、シャーが引き揚げたあとはまるで廃墟のようだったという。長いあいだ栄えたムガル朝の巨万の富は諸外国にも鳴り響いており、莫大な財貨を持ち帰った彼はイランの人びとから英雄として迎えられた。戦利品のなかには、ムガル朝の象徴「孔雀の玉座」があった。これは、2羽のクジャクを飾る宝石がちりばめられたもので、シャーによって解体され、宝石の山となって持ち帰られたという。

サファヴィー朝、ムガル朝ともに、もともと内陸部の騎馬民の軍事力を背景にして成立した王朝国家ということもあり、海上交易には比較的関心がうすく、インド洋やペルシア湾でのヨーロッパ諸国の活動をほとんど制限しなかった。また、ヨーロッパの新しい科学技術に対する関心も概して低かった。それが、ヨーロッパ諸国の本格的な進出を許す原因ともなった。しかし、両王朝の衰退は主に領域内からの反乱によるものであり、ヨーロッパ人の進出の結果とはいえない。ヨーロッパ人の進出、特にイギリスによるインドの植民地化はむしろその衰退に乗じたものといえる。

2009年04月04日

霧島一博

霧島 一博(きりしま かずひろ、1959年(昭和34年)4月3日 - )は、鹿児島県姶良郡牧園町(現在の霧島市)出身で井筒部屋(入門時は君ヶ浜部屋)所属の元大相撲力士。本名は吉永一美(よしなが かずみ)。最高位は大関。現役時代の体格は186cm、130kg。得意手は左四つ、吊り、寄り、出し投げ。現在は陸奥親方。

農家の長男として生まれ幼少時代から体を鍛えるのが好きで、小学校では3年生の時から真冬でも頭から水をかぶって登校し5年生からは重さ3kgもある鉄下駄を履くなどしていた。中学生の時に君ヶ濱親方(元関脇・鶴ヶ嶺、後の井筒親方)から勧誘され最初は断わったが、母が後押しし最初は反対していた父も折れたので君ヶ浜部屋に入門した。

1975年(昭和50年)3月場所に本名で初土俵、後に故郷の霧島山にちなんで霧島に改名したのは序二段にいた1976年(昭和51年)5月場所のことだった。1982年(昭和57年)5月場所で新十両、1984年(昭和59年)7月場所で新入幕。入幕後しばらくは8勝か9勝がやっとで、上位に上がれば2桁負けて跳ね返され平幕を上下していた。1986年(昭和61年)11月場所は前頭7枚目で初めて2桁勝利、12勝3敗で技能賞を獲得した。1987年(昭和62年)1月場所は新三役で関脇に昇進したが、3勝12敗と跳ね返された。

1989年(平成元年)1月場所に小結で1勝14敗と惨敗してからは、鍛え方を徹底的に見直し1日に卵を20個、バナナ2本などが入った夫人特製のプロテインを摂取するとともに、ウエイトトレーニングを行う肉体改造に取り組んだ。ベンチプレス200kg、スクワット300kg以上という強靭な肉体を作り上げ、体重も110?台から一気に130?前後まで増えた。その結果三役に定着。関脇で迎えた1990年(平成2年)3月場所では、6日目に横綱・千代の富士を吊り出して勝ち、千代の富士の通算1000勝達成を阻んだ。その後も連勝を続け13勝2敗、横綱・北勝海、大関・小錦との優勝決定戦に出場、敗れはしたものの場所後大関に昇進した(優勝は北勝海)。

大関昇進後は小錦と横綱昇進を争い、1991年(平成3年)1月場所は14勝1敗で初優勝し横綱が現実味を帯びてきた。しかし綱とりの3月場所は、1月場所の優勝祝賀会など相撲以外の行事の出席が重なって稽古が満足に出来なかったのと、綱とりのプレッシャーで5勝10敗と大敗し横綱の夢は果せなかった。その後は大関として精一杯の土俵を展開していたが、肘の故障等、段々怪我に苦しむようになる。1992年(平成4年)9月場所、7勝4敗から終盤4連敗して負け越し、肘の怪我でほとんど握力の無いまま挑んだ翌11月場所は初日から連敗が続いて精彩を欠き、更に7日目の水戸泉戦で右足首までも負傷して途中休場してしまい、16場所守った大関から陥落した。晩年になると陥落を阻止する為「帳尻あわせ」の成績が多くなる歴代大関陣と異なり、勝ち越しをかけた小錦との楽日対決に敗れ、角番を受け入れ翌場所負傷で途中休場し陥落するという潔さが話題を呼んだ。なお小錦は後年霧島を友人、戦友だと話している。

この前年に千代の富士の引退を境に他の日本人横綱が立て続けに引退し、大関以上では霧島が唯一の日本人力士として頑張っていたが、11月場所の陥落によって1993年(平成5年)1月場所では日本人の横綱・大関が不在という事態になった(その後、当時の貴ノ花が大関に昇進したので日本人不在は1場所で終わる)。陥落前の力が落ちてきた時期の霧島の相撲には、三杉里を網打ちで倒したり、貴花田(当時)を内掛けで下した一番など、技を活かして勝つ相撲が多かった。

1993年1月場所は公傷制度適用のため休場し、西張出関脇で再起をかけた3月場所は5勝10敗、その後三役に戻ることはできなかったが、人気の高さは変わらなかった。大関陥落後は番付が幕内中位から下位にいる時は出し投げを中心とした技能相撲で勝ち越すことも出来たが、幕内上位に上がると大負けするという状態が続いた。また勝ち越した場所も8勝7敗で終わることが多かったため、番付が少しずつしか上がらず、常に十両落ちの危機と隣合わせだった。

また体重も大関時代は約130?あったが、大関を陥落して半年経った頃から120?台前半まで落ちて一回り小さくなってしまい、明らかに衰えを感じさせた。このような状態でも常に諦めずに必死に相撲を取り続ける姿勢が観客の心を打ち、同じく大関を陥落した小錦同様声援は大関時代以上で当時の横綱、大関をも凌ぐほどの人気だった。幕尻近い西前頭14枚目で迎えた1996年(平成8年)3月場所は3勝12敗で翌場所は幕内に残れなくなり、惜しまれながらもこの場所限りで引退し、年寄・錣山を襲名した。この株は借株であり株が取得できない場合に備えて「ちゃんこ霧島」を興したのではないかと囁かれた事もあった。(霧島本人は自著で株の取得の為だけに現役を続けたのではないと主張。)

その後勝ノ浦に名跡を変更して井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1997年(平成9年)12月に陸奥親方(元前14・星岩涛)の退職を受け、陸奥に名跡変更するとともに陸奥部屋を継承した。さらに2000年(平成12年)11月に立田川親方(元関脇・青ノ里)が停年退職した際に、立田川部屋を吸収して突如大部屋に変貌することになった。

エピソード [編集]

和製ヘラクレス [編集]
筋力トレーニングを重視した力士は横綱・千代の富士が有名だが、霧島も早くから筋力トレーニングを実施していた。サプリメントなどの栄養面を重視した本格的な科学的トレーニングを実践した結果、30代になってから急激に成績が伸び、大相撲における筋力トレーニングの有効性を示した。その自然な筋肉美は、"和製ヘラクレス"の異名をとり、海外興行で外国人(特に女性)からも絶賛された。また甘い顔立ちでも知られ、パリ公演の際には"角界のアラン・ドロン"と紹介された。

著書『踏まれた麦は強くなる』 [編集]
引退後(正確には現役中に日本相撲協会の了承を得て執筆・発売)、霧島が子供のときから引退直前までの半生を語った本である。現役力士が著書を発売することはきわめて珍しく、日本相撲協会からの許可を得ての執筆活動となった。そのため霧島本人も日本相撲協会に対して著書内で感謝の意を示している。この本はフランスの大学で日本語教材として1997年に採用された。いち日本人力士の本が海外の学校教材として採用されたのは異例である。フランス語版は『ある力士の自叙伝』と題され、詳しい解説と注釈つきで、相撲のことをまったく知らない読者でも完全に理解できるように配慮されている。

フランスでは初の本格的相撲紹介書として大きな反響を呼んで順調に版を重ね、現在では増補新版が縮刷本になって出ている。特に大の相撲好きで知られるシラク前大統領はこの本に感動して何度も繰り返して読み、「もし政治家になっていなかったら、私は力士になりたかった」と記者会見で述べ、当時の内閣総理大臣であった橋本龍太郎が訪仏した時には大統領自ら献呈している。橋本首相はその時点では何故この本を貰ったのかその場では分からなかったらしいが、帰国後に読んでみると思わず感動に涙を流してしまい、霧島に親書を送って感激を伝え、わざわざ自分で霧島に会いに行ったほどである。この親書と訪問時の記念写真は、両国の「ちゃんこ霧島」に保存されている。

他のエピソード [編集]
趣味はゴルフであり腕前はシングルプレーヤー。
現役時代は「ドラコンの横綱」と呼ばれ、力士会のゴルフコンペには欠かせない存在であった。
不戦勝になり、土俵上で勝ち名乗りだけを受けた際、マスコミのインタビューに「土俵に上がった時の踏み込みがよかったんじゃないですか」と応えるなど、ひょうきんな一面もある。
愛煙家である。
移動車はトヨタ・アルファード。

主な成績 [編集]
通算成績:754勝696敗40休 勝率.520
幕内成績:518勝507敗40休 勝率.505
大関通算成績:139勝76敗25休 勝率.647
幕内在位:71場所(うち大関16場所、関脇4場所、小結4場所)
幕内最高優勝:1回(1991年1月場所)
年間最多勝:1991年(62勝28敗)
三賞:8回
殊勲賞:3回(1989年5月場所、1990年1月場所、1990年3月場所)
敢闘賞:1回(1984年7月場所)
技能賞:4回(1986年11月場所、1988年11月場所、1989年11月場所、1990年3月場所)
金星:2個(大乃国2個)

改名歴 [編集]
吉永 一美(よしなが かずみ)1975年3月場所-1976年3月場所
霧島 一美(きりしま -)1976年5月場所-1982年3月場所
霧島 一博(- かずひろ)1982年5月場所-1993年3月場所
霧島 和博(- かずひろ)1993年5月場所-1994年1月場所
霧島 一博(- かずひろ)1994年3月場所-1996年3月場所

年寄名変遷 [編集]
錣山 一博(しころやま かずひろ)1996年3月-1997年5月
勝ノ浦 一博(かつのうら -)1997年5月-1997年12月
陸奥 一博(みちのく -)1997年12月-

チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

2009年03月21日

彗星 (列車)

彗星(すいせい)は、西日本旅客鉄道が京都駅 - 南宮崎駅間を東海道本線・山陽本線・日豊本線経由で運行していた寝台特別急行列車である。

列車愛称は天体の彗星に由来する。「夜行列車は天体から」という慣例があるが、この「彗星」の名称は1950年から1956年までと1957年から1964年まで東京駅?大阪駅間を東海道本線経由で運行する夜行急行列車の名称として使用されていた。

そのため、本稿ではおもに旧国鉄→JR西日本旅客鉄道が京阪対日豊本線線内で運行していた寝台特別急行列車「彗星」及びそれに関連するを関西地区?日豊本線優等列車の沿革を扱い、旧国鉄が東京駅〜大阪駅間で運行していた寝台急行列車「彗星」については、銀河_(列車)・東海道本線優等列車沿革を参照されたい。


関西地区対日豊本線夜行優等列車沿革 [編集]
本項では主に「彗星」を中心とした関西地区対日豊本線の夜行優等列車に関して記述する。山陽本線優等列車沿革の項目も参照されたい。
1959年9月22日 関西対東九州間の夜行急行列車として、「くにさき」が京都駅 - 大分駅間に新設される。なお、熊本駅発着の「天草」(あまくさ)と京都駅 - 門司駅間で2階建て列車として運行されていた。
ちなみに1950年の時点で夜行急行「たかちほ」(1956年より漢字書きの「高千穂」)が東京駅 - 都城駅間で運行されていたが、東京駅発着と言うこともあり、必ずしも関西圏での利用がしやすいわけではなかった。
1960年6月1日 「くにさき」は都城駅発着に延長の上で、列車名を「日向」(ひゅうが)に変更。なお、「天草」との併結は継続。
1961年10月1日 「日向」単独運転となる。また不定期列車として、大阪駅 - 南延岡駅間運行の「第2日向」を設定する。
1965年10月1日 このときのダイヤ改正により、以下のように列車を増発する。
新大阪駅 - 宮崎駅間を運行する寝台急行列車として「夕月」(ゆうづき)の運行を開始。
観光団体専用列車として、大阪駅 - 早岐駅・大分駅間運行の「九州第2観光号」を運行開始。
九州方面への観光団体専用列車は、1961年に運行開始した東京駅 - 長崎駅・大分駅間運行の「九州観光団体専用列車」(この改正で「九州第1観光号」に改称)を発祥とするが、2本の「九州観光号」は博多駅 - 肥前山口駅間で併結運転を行っていた。その関係上、大分駅乗り入れは下りの第2観光号、上りの第1観光号のみとした。
1967年10月1日 「九州第2観光号」を「平戸・夕月2号」に改称の上、往復とも大阪駅 - 早岐駅・大分駅間の運行とする。
また、この当時(1967年?1972年)「ことぶき周遊券」を利用する新婚旅行客用として大阪駅?宮崎駅間を一等寝台車のみで組成された臨時急行「ことぶき」も運行されており、観光地として(とりわけ、新婚旅行地としての)宮崎県への旅行客が多かった時代とされている。また、同じ様に1971年?1972年には、広島駅発着の全車グリーン車による臨時夜行急行列車として、「南九州グリーン」(下りは西鹿児島駅行き、上りは宮崎駅始発)も設定された。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

1968年10月1日 「ヨンサントオ」と呼ばれるこのときのダイヤ改正に伴い、以下のように変更する。
新大阪駅 - 宮崎駅間を運行する寝台特急列車を設定。これに「彗星」(すいせい)の名称を与える。
「日向」・「夕月」を客車急行「日南」(にちなん)に統合。大阪駅(下り)・新大阪駅(上り) - 宮崎駅間、京都駅 - 都城駅間、大阪駅 - 南延岡駅間(季節列車。多客期は宮崎駅まで延長)各1往復の3往復が設定される。これに伴い従来の観光団体専用列車は廃止。
なお「日向」の列車名は大阪駅 - 宮崎駅間運行の昼行気動車特急(末期は電車特急)に転じ、山陽新幹線全線開業に伴い廃止され、その後2000年から延岡駅 - 宮崎空港駅間を結ぶ特急列車(列車名はひらがなの「ひゅうが」)に用いられている。
「日南」の多客期増発として、急行「べっぷ」が電車1往復、寝台客車2往復設定される。電車は新大阪駅 - 別府駅間(博多駅発着の「つくし」と門司駅で分割・併合)、客車は新大阪駅、大阪駅 - 大分駅間各1往復(大阪駅発着列車は佐世保駅発着の「西海」と門司駅で分割・併合)の設定であった。

2009年03月06日

コロポックル (アイヌ語: コ?ポック?, koropokkur)

コロポックル (アイヌ語: コ?ポック?, koropokkur) は、アイヌの伝承に登場する小人である。アイヌ語で、一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解される。アイヌ語では [p] と [b] は同一の音素であり区別しないため、コロボックル (コ?ボック?) とも言われる。アイヌの小人伝説は広く北海道や南千島や樺太に流布しており名称もこのコロポックル・コロボックルのほかにトィチセウンクルやトィチセコッチャカムィやトンチ(これらはみな「竪穴に住む人」の意)などというふうに呼ばれることもある。

アイヌ人の小人伝説は北海道や南千島、樺太に広く流布しており地域によって差もあるが大体次のようなものである。

アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。
彼らは情け深くアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていたが、姿を見せることを極端に嫌っており、それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。
あるときあるアイヌの若者がコロポックルの姿を見ようと贈り物を差し入れるを待ち伏せ、その手をつかんで屋内に引き入れてみたところ、美しい婦人のなりをしておりその手の甲には刺青があったという(なおアイヌの夫人のする刺青はこれにならったものであるといわれている)。
コロポックルは青年の無礼に激怒し、一族を挙げて北の海の彼方へと去ってしまい、以降アイヌの人々はコロポックルの姿を見ることはなくなった。現在でも土地のあちこちに残る竪穴や地面を掘ると出てくる石器や土器は、彼らがかつてこの土地にいた名残である。
この伝説中地域によってたとえば「コロポックルは怠け者でアイヌが彼らに食べ物を与えていた」とか「コロポックルの手にあった刺青は捕らえたアイヌの人々が奪還を懼れて施したものであって元来からアイヌの風習である」という風な変化が見られる。

十勝地方に残る伝説では、コロポックルはアイヌに迫害されたために土地を去ったといわれ、去り際にアイヌに言った呪いの言葉「トカップチ(水は枯れろ、魚は腐れの意)」が十勝の地名の由来とされる。

コロポックル論争
1886年、渡瀬庄三郎が『人類学会報告』創刊号にて札幌周辺に見られる竪穴住居の跡とみられるものがコロポックルの手によって作られたものであり、アイヌ人の前にコロポックルがかの地に居住していた証拠であるという旨の発表を行い、それに坪井正五郎が『人類学会報告』第9号にて大筋賛成という意見の表明を行った。しかし『人類学会報告』9号にはさらに白井光太郎による匿名での坪井への反論が掲載され以降、小金井良精・浜田耕作・佐藤伝蔵・鳥居龍蔵・喜田貞吉など多くの研究家がこの議論に参加した。結局この論争は1913年、坪井がロシアのペテルスブルクで客死、コロポックル実在説が衰えるまで続く。しかしこの論争はアイヌ研究学の方向を、アイヌ民族が先住民族でないという説(プレ=アイヌ説)からアイヌ民族こそ先住民族であるという説(アイヌ説)に持っていくこととなった[要出典]だけでなく、広く日本の人類学や民俗学や考古学を飛躍的に発展させるに至ったのである[要出典]。
いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

コロポックルをテーマにした作品
1959年に佐藤さとるがコロポックルをテーマにした「だれも知らない小さな国」を出版。現在のコロポックルのイメージの礎となっている。この作品は「コロボックル物語」としてシリーズ化され、「豆つぶほどの小さないぬ」「星からおちた小さな人」「ふしぎな目をした男の子」「小さな国のつづきの話」などの続篇が書かれた。
1973年には「冒険コロボックル」としてアニメ化もされている。
なお、佐藤さとるは、「だれも知らない小さな国」において、日本神話に登場する少彦名命とコロポックルとが同じ種族ではないかという推測を主人公に語らせている。
2005年には、作曲家である八木澤教司が吹奏楽曲「コロポックルの棲む渓谷?神居古潭?」を完成させる。この作品は、陸上自衛隊第2音楽隊に委嘱したものである。

2009年02月14日

21-Two One-

いわゆる「推理もの」で、各キャラについて信頼・平常・疑惑という人物信頼図や人物相関図がある。人の生死について深く語られており、殺人事件などにより盛り上げられている。
INSTALL DISCには「DEAD SIDE」、GAME DISCには「ALIVE SIDE」と名前が付けられている。
PC初回版のCDケースには4枚収録されるようになっている。残り2枚は、DEMO DISCである「ZERO SIDE」とSPECIAL FAN DISCである「ANOTHER SIDE」である。

霧島 拓哉(きりしま たくや)
本作の主人公で若手の医師。幼少の頃に母親を病で亡くし、どんな病気の人でも助けられるスーパーマンになるために医師になった。将来を嘱望されている優秀な医師だが、「すべての患者を救うことはできない」ことに自信と存在意義に疑問を感じる。
榊 芹(さかき せり) 声:川澄綾子
主人公の幼馴染で看護婦。主人公が落ち込んでいる時に、物でよく叩くが、それも彼女なりの愛情表現。母親を亡くした主人公を支えるために看護婦になった。
汽京 紅葉(ききょう もみじ) 声:三石琴乃
同僚の医師で腕利き。童顔の上に明るく人当たりもいいため、男性職員や患者から人気がある。彼女の母親が優秀な医師だったこともあり、回りから多大な期待をよせられている。
二見 美魚(ふたみ みお) 声:日向裕羅
真魚の妹。以前主人公が勤めていた病院に入院していた。原因不明の病に侵されており、病院側も諦めている。発作が起きなければ日常生活に支障は無いとの判断により退院させられたが、発作を起こして入院する。
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

二見 真魚(ふたみ まお) 声:長沢美樹
美魚の姉。無口だが、子供と遊ぶ事は好きである。約束を忘れる等、意外と抜けているところもある。妹の病気を治したい一心で医師を目指している。妹に対する主人公の医者としての心構えや態度を尊敬しており、また、異性として好意を抱いてもいる。
橘 唯菜(たちばな ゆいな) 声:雪乃五月
芹の先輩の看護婦。真面目で優しい人。主人公と境遇が似ており、彼女は弟を亡くしてから医者を目指すようになった。しかし、医者になる夢はかなわず看護婦になった。自分の夢を、想いを、託せる人を待ち続けている。
一ノ瀬 木葉(いちのせ このは) 声:南央美
子供だが、不思議な一面がある入院している患者。詳しいことは何もわからない。香澄の親友。
三原 香澄(みはら かすみ) 声:飯塚雅弓
木葉と遊びに毎日のように病院に来る。すごく活動的で、病院内外にかかわらず動き回っている。兄に対して兄妹として以上の想いを抱いている少女。
三原 霞(みはら かすみ) 声:飯塚雅弓
香澄の双子の兄。性格は香澄と反対で、静かで理知的な性格。
狭川 翠(さがわ みどり) 声:豊嶋真千子
病院内にあるカフェで働いている。病院には不釣合いな制服(衣装)を着ている。ネコ耳を常に着用している。好奇心旺盛で、あちこちの会話に首を突っ込んでくる。
原崎 豊(はらざき ゆたか) 声:子安武人
高校時代の同級生で現刑事。主人公の親友(悪友)である。
柿谷 大路(かきたに おおじ)
主人公らが勤める総合病院の院長。
立木 秀雄(たちき ひでお)
主人公らが勤める総合病院の外科部長。主人公の師ともいえる人物でもある。
富田 光宏(とみた みつひろ)
主人公らが勤める総合病院に骨折で入院している患者。
真聡(まさと)
謎のスカートめくり少年。BasiL作品の常連端役。彼に捲られる女性の下着(パンツ)はいつも縞々模様のものである。今回、被害に遭うのは狭川翠。

2009年01月27日

バルデュール (航空機)

シュド・エストバルデュール (Baroudeur) は、フランスのシュド・エスト社で試作された戦闘機である。降着用の車輪を持たず、胴体に装備したソリが降着装置という変わった形態のジェット戦闘機であった。1953年に初飛行したが、結局不採用となった。
シュド・エスト社が1953年に開発した戦術戦闘機が、SE5000 バルデュールである。機体自体は42度の後退角を持つ主翼のジェット単発機で、エアインテイクは主翼の両側付け根に設置した当時としては平凡なものであった。しかし本機は、機体重量の軽減と製作コストの軽減、草原のような未舗装の飛行場からも容易に離着陸できることを狙って、降着用の車輪を装備しなかった。また、降着装置分の武装搭載量が増加できることも期待されていた。
フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ

離陸は専用の台車を使い、台車とともに滑走し離陸後台車を回収する方式をとった(第二次世界大戦時にドイツのMe163やAr234の初期型でとられた方式と同じであった)。この台車にはロケットエンジンが装備され、滑走時の加速を助けた。この装置のおかげで、750m程度の未舗装地からも離陸可能だった。着陸は胴体の引き込み式のソリと胴体尾部の安定板を兼ねたソリを使って行った。このソリは丈夫で軽い素材という理由でマグネシウム材が用いられた。

1953年の初飛行後、試作機2機、エンジンが強化された増加試作機(SE5003と呼ばれた)3機が製作されテストが行われた。飛行性能自体はそれ程悪くはなかったが、ソリを使った着陸は地面と機体との間隔が狭く、かなり操縦が難しいことが指摘された。また、離陸後の台車の回収に手間がかかるため、当初目的としていた草原等での運用には向いていなかった。シュド・エスト社では、生産型においては引き込み式の車輪を装備し、台車・ソリによる離着陸と車輪による離着陸が選択できるようにすることも予定していたが、二つのタイプの降着装置を有することは無駄が多いため計画のみで終わった。結局、運用方法がネックとなり、フランス空軍は本機の採用を見送ることになった。

スペック
エンジン: SNECMA アター101C (推力: 2,800 kg)
全長: 13.5 m
全巾: 10.0 m
全高: 3.62 m(台車搭載時)
翼面積: 25.5 m?
空虚重量: 4,465 kg
最大離陸重量: 6,300 kg
最大速度: 1,040 km/h
武装: 30 mm機関砲 ×2
乗員: 1名